大学四年の時、帰省先の中学の教員採用試験に合格したが進学。
東山学園高等部
敦賀女子短大
京都第一赤十字病院付属看護学校
龍谷大学
などの講師・客員研究員を勤める。
小学生時分から疲労しやすく持久力が続かなかったが
大学卒業後は強い疲労がさらにつよくなり、
大学講師を6年勤めたところで原因不明のまま
本格的にダウン寸前となる。
知人の勧めにより、比叡山で一人の僧侶の施術を受け、
はじめて回復のきざしを感じる。
僧侶が心臓血管外科医で人工心臓の世界的な権威の福増廣幸博士であることを知る。
私塾の勉強会で自分の身体に起きていたことも初めて知った。
健康回復の生涯設計と博士の知識と技術をまなぶため、大学講師を辞し、
法的に独立開業できる国家資格の得られる夜間の医療系専門学校に入りなおす。
国家資格取得後、施術所の開設届を出す。
1998年3月、福増博士急逝。
2007年5月、福増博士のライバルであった渥美和彦博士が学会長を務める
Jact(当時)の機関誌に投稿原稿(福増博士の触手療法について)が採用される。
2007年12月、Jactの年次大会が東北大学医学部当番校で仙台で開かれ、
手技療法家8人の発表者の一人に選ばれパネル発表を行った。
弛緩体操指導やカルチャースクール講師を務めながら
出歩きにくい方のため、訪問を中心に施術を行いつつ
触手療法のせいか、通常では得難い施術結果と思われるような
結果も得つつ、現在に至る。