はじめまして、國米秀明です
私は龍谷大学や敦賀女子短大、京都第一赤十字病院付属看護学校などの講師をしていました。
しかし、著しい体調不良に困り果て、幸運にも出会った人工心臓の世界的権威だった故福増廣幸(ふくますひろゆき)元心臓血管外科医から6年間、直接教えを乞うことで回復し、教わったことを実践しつつ、いろいろな体験をしてきました。
教わったことも驚天動地ならそれに従って得られた結果も同様でした。
2007年に全国大会で発表したのですが、その過程で私が教わっていた分野が統合(とうごう)医学と呼ばれていることを知りました。
日本が基礎に置く西洋医学と基礎にはおいていない非西洋医学を統合したものと言う意味でした。
そもそも、ビタミンが発見される前、日本は文豪、森鴎外の判断でドイツ医学を日本の医学の基礎とすることにしました。
当時、治療法が確立していなかった脚気(かっけ)患者を漢方医とドイツ西洋医に同数まかせ、どちらが多くの患者を戦場に戻せるかで競ったのです。
結果、漢方医は死者は一人も出しませんでしたがドイツ西洋医ほど戦場に患者を戻すことができませんでした。
ただし、ドイツ西洋医は死者もだしています。
恩師、故・福増博士は森鴎外を非難していた
詳細を、ネットで公開されている東京大学名誉教授 大井 玄博士の記述から要約します。
明治となり、開国を強いられた日本は、列強に伍して生き残るには、軍人の健康状態を戦闘可能な状態で維持することが絶対的に求められた。
当時の日本陸軍が期待する若き軍医森林太郎(森鴎外の本名)は、いずれ迎える外国との日本の存亡をかけた戦い(日清・日露直前なのです※國米加筆。以下同じ)を控え、兵士の兵力を保つという大役を担っていた。
当時の軍隊において最大の健康問題が脚気(かっけ)の流行だった。
食料が足りているはずの軍隊内で脚気が流行ったのだ。
明治9年、平時の陸軍兵1000人に対し、脚気の新規罹患者が108人、それから8年後の明治17年には263人となった。
実に陸軍兵士の4人に1人が罹患しているのだ。
致死率自体は2から6%と絶望的ではなかった。
だが、戦時になると罹患者も死亡者も跳ね上がったという。
いまでこそ脚気がビタミンB1欠乏症であることは中学の保健の教科書でも載っていることだ。
しかし、ビタミンそのものが未発見だった当時、白米を兵士の食事としていたため、信じがたいほど多くの犠牲者が出た。
明治15年から16年にかけて太平洋をニュージーランドからチリ、ハワイを271日かけて航海した練習艦龍驤の乗組員376名中169名が脚気になり25名が亡くなるという大事件が起きた。
乗員の食事は白米食だった。
その一方、海軍医務局高木兼寛は、 明治8年から13年の英国留学で欧州には脚気がないことを知り、白米を主にしている日本の兵食が原因だと気付いた。
さっそく遠洋航海実験でたんぱく質を増やすと脚気が発生しなくなることを確認した。
兵には白飯だという猛反対を押し切り、明治18年以降、たんぱく質の多い麦飯に変更し、海軍での脚気を根絶することに成功した。
にもかかわらず、当時の陸軍軍医総監石黒忠恵は、明治18年、ライプチッヒで陸軍一等軍医森林太郎(鴎外)が記した『日本兵食論大意』により「脚気伝染病説」に立っていた(※『日本兵食論大意』は現実的なデータに寄らない本からの引き写しであったらしい)。
明治21年、日本に戻った森林太郎は米を主食とするのが和食、パンを食べるのが洋食とし、和食は洋食に全く劣らず、さきほどの高木兼寛をイギリス流の偏屈学者であると非難した。
さらに、米食・麦食・洋食で比較試験を行い、カロリー、たんぱく質補給能力、内的環境(原文では「体内生活度」とあった。國米意訳)の全てにおいて米食が最も優れるという結果が得られたとした。
ビタミン欠乏症と言う概念がまだなかったこともあり、この陸軍兵食試験結果は後々まで信用された。
だが、1894年(明治27年)8月1日から1995年4月17日にかけて起こった日清戦争では、戦闘そのもののいわゆる戦死者977人を陸軍から出し、傷病者約28万人、患者死亡者約2万人。陸軍の脚気患者は約4万人という結果が出た。
海軍にも軽い脚気症状の者は出たが、死亡者はおろか重症者の多発はなかった。
1904年(明治37年)2月8日 – 1905年9月5日の日露戦争では、陸軍の戦死者約4万6千人、傷病者35万人であり、そのうち脚気患者25万人となる。しかも、戦病死者3万7千人中、脚気による死者が約2万8千名も出た。
日清・日露の二度の戦いで大惨事となった陸軍脚気対策に、森林太郎の誤りが深く関っていた事実は、東京大学医学部衛生学教授山本俊一氏が、1981年になって初めて、学会誌「公衆衛生」で指摘した。日清戦争からはすでに一世紀以上が経っていた。
文豪森鴎外は銃弾よりも多い死者が脚気で出ていることを知っていたが、自分の誤りがその最大の原因だったことは気づいていなかった。
東京大学名誉教授 大井 玄博士の記述引用
故福増博士はそこを指摘していたのです。
だが、福増博士は単に鴎外を非難していただけではありません。
いまだに鴎外と同じ過ちを繰り返している
福増博士が急逝して20余年が経ちますがその状態は全くと言っていいほど変わっていません。
このブログでは福増博士が我々に教えてくれたことを一つ一つ記していきます。
あまり複雑にならぬよう、しかし、簡略にもなりすぎないようにしていくつもりでいます。
福増博士の著書に従ってそれを教わった者として、おそれ多くも解説したブログも他に作っているところです。
並行して読んでいただければ幸いです。